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ペルラ・フランケル

フランケルウィレックはあまりの多くの人々が領事館の前に殺到していたので中に入る事が出来ないと思ったが、入館を試みた。ウィレックは領事館周辺を見渡し、庭に通じる入口を裏側に見つけた。彼はそこに入り、台所に通じるドアを見つけた。ドアを開けると、驚いた表情の日本人メイドがいてお辞儀をしたので、ウィレック自身もお辞儀をした。お互い何度か会釈した後、彼は階段を上がり、何度も空室のドアを開けた後に、次の部屋のドアを開けると、突然、驚いた表情の杉原領事を見つけた。「どうやって入ったのですか?」彼はドイツ語で尋ねた。ウィレックは突然住居に侵入した非礼を詫びた後、どのように侵入したか、そして家族のために、特に二人の子供達のためにビザがどうしても必要である旨を述べた。杉原領事は静かに話を聞いた後にペンを取り上げ、私に「彼らの名前は?」と尋ねた。ウィレックがビザとともに現れた時、誰も彼がどうやって領事館に入り領事に会ったか理解できなかった。「魔法だ」彼は答えた。「神の力によって私はマジシャンになった」。

 

ニーナ・アドモニ・ベルタンス

私、 ニーナ・ベルタンスはポーランドのワルシャワで1932年11月17日に生まれました。ナチがポーランドを攻撃する1939年9月1日まで平穏な幼少期をそこで過ごしました。

家族会議の結果、私達はスゼスキン家の祖母が住むリトアニアのウィルノ(ビリニュス)に疎開することになりました。ドイツ軍が迫っていましたが、私達家族はこの戦争はそんなに長くは続かないと思っていました。

ロシアはウィルノ(ビリニュス)を占領し、ミロン・スゼスキン叔父は投獄され、まもなくシベリアに送られました(後にイスラエルの首相となったメナハム・ベギンは叔父と同じ監獄でした)。ソ連軍兵士は、“資本主義者"を捕まえるため、私たちのアパートを夜間捜索しました。

ロシアはウィルノ(ビリニュス)を占領し、ミロン・スゼスキン叔父は投獄され、まもなくシベリアに送られました(後にイスラエルの首相となったメナハム・ベギンは叔父と同じ監獄でした)。ソ連軍兵士は、“資本主義者"を捕まえるため、私たちのアパートを夜間捜索しました。

リトアニアの首都であるコブノ(カウナス)へ向かう列車の中で、私の母がユダヤ教専門学校で学んでいるチャシドという人物から日本の通過ビザを取得するためにカウナスの日本領事館に行き、かつキュラソー島行きビザがあれば、ロシア軍に占領されているウィルノからの出国許可を得ることができるという話を聞きました。

オランダ領事はキュラソー島へ渡航する際にビザは不必要であるという証明書を私たち発行してくれ、杉原領事は日本通過ビザを発給してくれました。私たちは、それらを持って、ウィルノにあるソビエトの当局から出国査証を受け取りました。

モスクワからウラジオストックへのシベリア鉄道での旅は長く、12日間にも及びました。窓からの風景はところどころに木が見えるほかは、真っ白でした。途中、多くの停車駅がありました。私達は、小さな停車駅で列車を降りて、周りの景色を見ました。駅には熱湯という意味の“Kipiatok”という表示があり、熱湯が売られていました。それは、私たちが旅の間に購入することができた唯一のものでした。

私たちは日本に到着すると、係官による聴取を受けました。私の両親は、旅行中私の顔中に赤い発疹が出ていたことから、私の入国が許可されず、隔離されるのではないか、という事を恐れていました。私はスカーフを巻かれ、下を向いているようにと言われました。私は係官の検査を無事に通過することができ、神戸に向かいました。そこでは快適なホテルに投宿し、私の両親が望んでいたように誰にも知られず私は医者に診てもらう事が出来ました。長旅の後で、ベッドはとても柔らかく、贅沢に思えた事が今でも思い出されます。病気から回復すると私たちは石庭がある大変美しい日本式の旅館に移動しました。部屋は障子で仕切られていました。


エディス・ハメル・フィンケルシュタイン

私は1937年5月14日にリトアニアのカウナスで生まれました。1937年に私の両親はクライペダに住んでいました。父は貿易商として成功しており、祖父はタウラゲにある材木工場のオーナーの一人で大家族でした。将来を考え、母は当時のリトアニアの首都であるカウナスに子供を生むために移動しました。出生証明書にカウナスと書かれていた方が、当時両親が住んでいたクライペダのような小さな街よりも広く知られていると考えたためでした。カウナスには小さなユダヤ人の病院がありました。私は祖母の名にちなんでエディスと名付けられました。この名前は多くの言語でわかりやすい良い名前でした。

クライペダがドイツ軍に占領されると、私の父は仕事を止めさせられ、街を去らざるを得ませんでした。最初に私達は祖父母の住むタウラゲに滞在し、その後カウナスに移り住みました。この地域もユダヤ人にとって安全でなくなりつつあることは明らかでした。

1940年7月24日、私達はカウナスの杉原領事にビザを発行してもらいました。私の父は東プロイセン出身でドイツのパスポートを持っていたので、私たちはビザの申請をすることができました。母方の親戚は全員リトアニアのパスポートを所持していました。ナチがリトアニアを占領したとき、彼らは皆カウナスのゲットーに送られました。母方の親戚のほとんどが第九要塞で射殺されました。